【キングダム】太后の過去は?毐国建国の経過や政の裁きについても

漫画『キングダム』はヤングジャンプで16年もの間連載されている、大人気漫画です。

戦国春秋時代を舞台に、奴隷出身の青年信(しん)と後の始皇帝である嬴政(えんせい)が奮闘する姿に心打たれる超大作です。

本記事では政の母親で、波乱の人生を歩んだ太后(趙姫)についてまとめました。

太后はなぜ国を作り、秦に叛旗を翻したのでしょうか。

 

キングダムで太后の過去は?

太后は史実上には名前が残されていませんが、趙で産まれた舞姫なので趙姫(ちょうき)と呼ばれています。

趙の都である邯鄲(かんたん)では、皆の注目を集める舞姫で、その人気を聞きつけた呂不韋も彼女に夢中になりました。

二人は恋におち許嫁の約束をしていましたが、ある日突然呂不韋の出世のために秦王と結婚させられます。

邯鄲の宝石・美姫

趙姫

引用:原康久『キングダム』集英社

 

呂不韋は、太后のことを「美姫(びき)」や「邯鄲(かんたん)の宝石」と呼びました。

しかし、「邯鄲の宝石」と呼ばれることを太后は激しく嫌いました。

おそらく呂不韋が太后を口説くときに、口繁く使った言葉だったからでしょう。

以前はあれほど自分のことを美しいと言い、愛を囁いてくれたのに、呂不韋は出世のために太后を裏切ったのです。

呂不韋はこの呼び方を大変気に入っていますが、太后はその名前を呼ばれるだけで心が引き裂かれるほど辛いのでしょう。。

呂不韋の許嫁

太后はその昔、呂不韋の許嫁でした。

当時ただの商人だった呂不韋にとっては、超姫は高嶺の存在だったに違いないでしょう。

大量の花と宝石を送り、舞台のバックアップも務め、とにかくお金の注ぎ込み方が並大抵のものではなかったことは推測できます。

呂不韋の裏切り

呂不韋は、その身一つで立身出世を果たしてきた人物でした。

外交的でたくさんの身分の高い人物と繋がりを持つことで、その人間関係を利用していくことを躊躇しませんでした。

そして趙で人質になっていた、王位継承権の低い子楚(荘襄王)に取り入り、全財産を投資することで王位につかせました。

呂不韋は国盗りの最初の賭けをするために、自分の愛した人を差し出すのも惜しくなかったのでしょう。

子楚との結婚と出産

趙姫は落胆しながらも、子楚の子供である嬴政(えいせい)を趙で産みました。

この時、趙姫の年齢を逆算してみると10代後半に嬴政を産んだことが推測されます。

昔は結婚も早く、子供を産むのも早いと言われていましたが、蝶よ花よと育てられた趙姫の人生を一変させたことでしょう。

趙での過酷な日々

趙国に秦が攻めて来たことから、呂不韋と子楚は身の危険を感じ、嬴政と趙姫を置いて趙を脱出しました。

残された二人はお金も残されておらず仕送りもなく、趙姫は売春をしてその日の暮らしを食い繋ぎました。

二人は趙の人たちの前では、顔をあげることを許されず、趙姫は呼ばれればどのような男性とも関係を持ちました。

そして心の中の怒りは、全て嬴政にぶつけられ、暴力や暴言は日常的に行われていたようです

また、嬴政は食事を十分に与えられず、盗みなどをして食い繋ぐこともありました。

捕まると町民から多大な暴力を受け、痛みの感覚が無くなってしまい、人相も悪くなり、自分を責める幻影にも取り憑かれました。


毐国建国の経過

呂不韋は、嬴政を陥れるため後宮の太后と密会しました。

しかし変わり果ててしまった太后に落胆し、後宮への出入りは危険であると判断した呂不韋は、嫪毐(ろうあい)を太后に紹介することにしました。

下品な芸をするしか能がなく、パッとしない嫪毐はなぜ太后と国を興したのでしょうか。

嫪毐との関係

嫪毐は最初は太后のことが恐ろしかったそうですが、何度も夜を共にするうちに、太后の心の傷を癒したいと思うようになりました。

宦官は本来生殖行為を禁じられているので、子供を作ることは大罪ですが、太后は二人の子を産む決意をしました。

太后は嫪毐のことを、「好いた男」で「あんたの百倍やさしいよ」と呂不韋に語っています。

毐国建国の目的

毐国建国の目的は、太后と嫪毐、そして子供達が心安らかに暮らせる場所を作るためでした。

太后と宦官の間に子供を作ることは大罪なので、その事実を隠しながらも安全に暮らせる場所が必要だったのです。

しかし、呂不韋は太后に子供がいることを知っており、毐国に大臣の虎歴(これき)や将軍・樊於期(はんおき)を忍び込ませました。

虎歴は、二人の隠し子の存在が咸陽にばれたと嘘をつき、毐国反乱を引き起こしました。

毐国の最後

毐国の反乱は、嬴政の加冠の儀(かかんのぎ)の最中に行われましたが、昌平君(しょうへいくん)の裏切りがあったため失敗しました。

太后は玉璽の複製を作り、函谷関(かんこくかん)を抜け3万の兵で進軍しましたが、飛信隊や昌平君率いる黒騎兵によって大敗しました。

寄せ集めの烏合の衆である毐国反乱軍は、秦国の先鋭部隊黒騎兵や昌平君に勝つことはできなかったのです。

そして、太后と嫪毐は捉えられ、毐国は元の秦国に戻ってしまいました。

嬴政の裁き

嬴政は、謀反を起こした太后と嫪毐を断罪しなければなりませんでした。

特に嫪毐に処された刑は、身の毛がよだつほどの恐ろしい処刑方法でした。

嫪毐は車裂きの刑

嫪毐が受けた車裂きの刑とは、両手足と頭を縄で馬と繋ぎ、馬を一斉に走らせ四肢を引き裂くというものでした。

史実上では、嫪毐は謀反後逃亡を計ったそうですが、キングダムでは太后を庇い処刑を受けました。

嫪毐は、太后に出会えたことが自分にとって一番の幸せだったと言い残し、処罰を受けました。

その首は晒され、一族も全員死罪になったと言われています。

 

太后の子どもの処分

太后の子供たちは、史実上では処刑されましたが、キングダムでは嬴政が匿ってくれたそうです。

嬴政は罪の元凶である二人の子供を、表向きは処刑すると発表しなければならなかったので、太后は泣き叫び嬴政をののしりました。

その後嬴政は、幽閉され絶望に打ちひしがれる太后に、子供たちの無事を知らせました。

太后が声を発せず静かに震えたのが印象的でした。

太后の処分

キングダムの舞台である中国春秋時代は、儒教の教えが強く、両親を殺してしまうことは禁じられていました。

そのため、太后は雍城へ幽閉されることになり、食べ物も喉を通らず苦しみの中過ごしました。

愛する人も殺され絶望の中にあった太后が、その後子供たちと一緒に過ごせて幸せな日々を生きられたのでしょうか…。


まとめ

波乱の人生を駆け抜けた、嬴政の母である太后についてまとめましたがいかがだったでしょうか。

太后はその苦境の辛さを幼い嬴政にぶつけて来ましたが、彼を産んで育てたことがどれだけ大変だったか伺えます。

もしも嫪毐の子供を産んだ時のように、心に余裕があれば、彼女も嬴政を虐待することはなかったかもしれません。
 
時代に翻弄され続けた太后が、反乱を終えて安らかに眠れるようになれることを、嬴政も願っていることでしょう。
 
最後まで読んでいただきありがとうございました。
 
 

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