漫画『キングダム』は2022年4月にはアニメ第4シーズンが始り、同年7月からは映画『キングダム2 遙かなる大地へ』が放映されます。
2006年からヤングジャンプで連載され、16年以上も連載を続ける中多くの読者から愛され続けています。
特に奴隷出身で大将軍を目指す主人公・信(しん)と、後の始皇帝の嬴政(えいせい)の活躍は見どころです。
本記事では嬴政の母である悲劇の女王・趙姫(ちょうき)についてまとめました。
祖国で残虐な扱いを受けた趙姫は、秦国に戻り太后となり不自由ない暮らしをしたはずなのに、なぜ嫪毐(ろうあい)と国を興したのでしょうか。
また、呂不韋(りょふい)との過去にも迫ります。
目次
キングダムで嬴政の母は趙姫!
嬴政の母である趙姫は、その奇抜な髪型と妖艶な微笑み、露出の多い服装が特徴的です。
また、嬴政との関係もよそよそしく、嬴政は久しぶりに会った趙姫に全く近づこうとしませんでした。
趙姫は、近くに来るよう何度も嬴政に呼びかけ、嬴政は一歩ずつ趙姫に近づいて行ったのが印象的でした。
母の理想像とは真逆の趙姫は、なぜこんなにも嬴政に警戒心を持たれる母親になってしまったのでしょうか。
趙姫は嬴政の母
趙姫はもともと趙で産まれましたが、秦国の荘襄王(そうじょうおう)に嫁ぎ、嬴政を産みました。
その間に秦の将軍白起は、趙国の兵を大虐殺したため、趙国の民は秦王を激しく憎むようになりました。
荘襄王は秦国が趙国に攻めて来たので、身の危険を感じ、趙姫と嬴政を趙に置いて秦に逃げてしまいました。
邯鄲に残された二人は趙でひどい扱いを受けながら、身を汚しながら生きていかなければならなかったのです。
趙姫の過去
趙姫はもともと趙で産まれ、美姫(びき)や「邯鄲の宝石」と呼ばれるほどの美しい踊り子だったそうです。
そんな趙姫に呂不韋は惚れ込み、宝石とともに花を送り、二人は恋仲になりました。
趙姫は呂不韋の許嫁となり、彼と結婚できると強く信じていましたが、突然秦王と結婚するよう言われます。
結果的に、趙姫は呂不韋の出世に利用されてしまったのです。
趙姫はなぜ変わってしまったのか
趙姫は舞姫として趙国のヒロイン的な存在でしたが、呂不韋に裏切られ、趙でひどい差別を受けたことで陰湿な性格に変わってしまいました。
元々周りからチヤホヤされていた趙姫は、苦境での耐性はなく、自分の身がかわいそうで嬴政に愛情を注ぐ余裕はありませんでした。
そして自分の不幸は全て嬴政のせいだと信じ込み、男性と一時的な関係を持つことで、心の安定を保って来ました。
史実での始皇帝の母
史実上での趙姫も、キングダムでの性格と似通っており、男性との関係にだらしない印象でした。
ほぼ史実通りのキャラクターだと言っても良いでしょう。
しかし、毐国の反乱では、趙姫の母親らしい一面も垣間見ることができます。
ぜひコミックやアニメで確認してみてくださいね。
呂不韋や嫪毐との関係についても
趙姫は好きでもない荘襄王に嫁ぎ、邯鄲に置き去りにされ、金の工面のあてはなく多くの男性に体を売っていました。
しかし、彼女が惚れ込んだ男性は呂不韋と嫪毐の二人だけでした。
趙姫なりに二人に尽くしてきたと思いますが、母親なのであればその愛情を嬴政にも注いであげるべきだったのではと感じます。
呂不韋と趙姫
呂不韋は、趙姫が舞台で踊っているのを見て一目惚れし、ずっと彼女を愛していました。
しかし、愛しているからこそ彼女を大切にするわけではなく、どんな人物でも自分の出世のために使うというのが呂不韋のポリシーでした。
階級が低くただの商人だった呂不韋は、人間関係を上手く操り商談を持ち込むことで出世をして来ました。
また、自分の恋人を教育し、王に献上する文化は、古代では階級の低いものが出世をする手段としてよく使われて来ました。
あらかじめ、趙に人質となっていた荘襄王に取り入り、財産と恋人を賭けて宰相の位を手に入れたのです。
嫪毐と趙姫
【無い説】
キングダムの好きなキャラが嫪毐(ろうあい)のjk、全員ギャル説 pic.twitter.com/7D7eflPkdZ— 四季ボウ (@pomupomustupidX) June 5, 2020
嫪毐は、呂不韋が後宮に宦官として忍び込ませた男娼でしたが、いつしか嫪毐と趙姫は深く愛し合うようになりました。
初めは嫪毐も趙姫のことが怖かったのですが、二人の時間を重ねていくうちに、彼女が不運な人生を送り傷つき涙を流していることを知りました。
猫舌で、優柔不断、下品な芸をするしか能がなかった嫪毐ですが、趙姫との間に二人の子供を授かる幸福を得ました。
趙姫と子供達が安らかに過ごせる場所を持つために、宦官の超高(ちょうこう)と協力して国を作ることに成功しました。
二人が作った国である毐国(あいこく)は予想以上に大きくなり、そこに呂不韋の使者が送り込まれ、秦国に反乱を起こす流れを作られてしまいました。
趙姫が留守の間に、嫪毐は呂不韋の使者・虎歴(これき)や臣下に促され、ついに謀反を起こす決意をしました。
結果、毐国の反乱は失敗に終わり、最後に嫪毐は趙姫と出会えて本当に幸せだったと告げました。
嫪毐は当時一番酷い死刑方法である、車裂きの刑に処せられ、四肢を引きちぎられ絶命しました。
まとめ
波乱の人生を送った嬴政の母・趙姫についてまとめましたがいかがだったでしょうか。
趙姫が嬴政を虐待していたのは許せないことですが、彼女の年齢を逆算すると、嬴政を産んだのはまだ10代であったことがわかります。
舞姫であった時は煽てられ育ち、呂不韋と恋に落ち裏切られ、趙国に置き去りにされた彼女はどんなに心細かったでしょうか。
そして母国の人々から「敵国秦王の子を産んだ女」として罵られ、その怒りを嬴政にぶつけて来ました。
しかし、熱がでた嬴政の額を冷やし寝かしてくれたこともあったのを、嬴政は覚えていました。
そしてやっと愛した人の子を産んだ時、後宮での最高位を捨て、家族とともに暮らしたいという譲れない願いができたのでしょう。
最後に嬴政が趙姫に与えた最大の慈悲は、史実にはない話ですが、多くの読者の心を温めました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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