キングダムで毐国の反乱はなぜ起きた?毐国大臣・虎歴についても

漫画『キングダム』は2006年からヤングジャンプで連載されている大人気漫画です。

紀元前に起こった中国戦国春秋時代の、個性豊かな武将たちの活躍を描いた超大作です。

特に奴隷出身の主人公である信(しん)と、後の始皇帝である嬴政(えいせい)の成長する姿は大きな見どころです。

本記事では、嬴政の母親である太后が起こした毐国(あいこく)の反乱についてまとめました。

太后が夢見た理想郷であったはずの毐国は、なぜ反乱を起こし滅亡してしまったのでしょうか。

そこにはまたしても、嬴政の宿敵である呂不韋の影があったのです。

 

 

キングダムで毐国の反乱とは?

毐国の反乱とは、表向きは毐国の王である嫪毐(ろうあい)が起こした反乱です。

嫪毐と太后は二人の子供と安全に暮らすため、毐国を興すことを決めました。

国力も高まり、順風満帆に見えましたが、ある日二人の子供の存在が咸陽にばれたことが発覚しました。

秦軍が攻めてくる危険を感じた臣下達は、嫪毐たちに秦を攻めるように焚き付け、とうとう謀反を起こさざるを得ない状況に追い込まれたのです。

毐国建国の経過

著雍(ちょよう)の戦い後、資金繰りが厳しくなった秦は、せっかく討ち取った山陽一帯の統治が疎かになっていました。

そこに太后がやってきて、後宮勢力の顔がきく山陽を取り仕切ると言い出したのです。

国の資金を使わずに、山陽を統治できるのは大きなアドバンテージであったためこの提案は受け入れられました。

最初国民も毐国建国について半信半疑でしたが、秦の軍隊から少しずつ兵をかき集め、優秀な臣下を買収し毐国は勢力を増していきました。

太后と嫪毐(ろうあい)

趙姫

引用:原康久『キングダム』集英社

 

嫪毐は、呂不韋(りょふい)が太后の相手をさせるために後宮に忍び込ませた宦官です。

呂不韋と太后は荘襄王が亡くなる前は恋人関係でした。

太后は呂不韋とまた元の関係に戻りたいと思っていましたが、呂不韋は後宮に出入りするリスクを感じていました。

そこで呂不韋は嫪毐を後宮に忍び込ませ、太后と嫪毐は毎夜関係を持つようになりました。

そして二人はお互いを深く愛する様になり、遂には禁止されているにも関わらず二人の子供を産んでしまったのです。

著雍の戦い後まで、嫪毐の存在はすっかり忘れられていましたが、まさか国づくりをしようとするなど皆考えていませんでした。

趙高(ちょうこう)

趙高は、太后に仕える宦官で初出演時から、太后に助言やサポートをしてくれていた優れた宦官です。

毐国建国がスムーズにできたのは、全て趙高のおかげでした。

しかし二人の隠し子の存在は公になってしまい、泣きながら太后に謝っていました。

しかし、全てここまで趙高の筋書き通りことを動かしていたのに、なぜ肝心な隠し子の秘密がバレてしまったのでしょうね…。

賢い趙高にはありえない失敗かと思います。


毐国軍の反乱の経過について

毐国の反乱が起こったのは、屯留の戦いからまだ半年しか経っておらず、国力や兵力が著しく下がっていました。

趙高は楚と密約を交わし、楚軍が秦に攻めてきました。

南の楚と北の毐国で挟み込むように秦を攻めるとより、侵攻がされやすくなるので、このままだと危険と軍師・昌平君(しょうへいくん)は話していました。

反乱はなぜ起きた

毐国の反乱が起きた理由は、太后の隠し子の存在がばれてしまったからです。

国の母である太后が、宦官との間に子供を作ることは大罪であったので、この秘密が発覚してしまったら身の破滅は確実でした。

呂不韋は太后に子供がいることを知っており、毐国に大臣の虎歴(これき)や将軍・樊於期(はんおき)を忍び込ませました。

虎歴は、二人の隠し子の存在が咸陽にばれたと嘘をつき、毐国反乱を引き起こしました。

そして臣下達は、もはや二人の首をはねるか、反乱を起こすかの二択だと言い出し太后は反乱の道を選びました。

毐国の反乱にも呂不韋が大きくかかわっていたのですね。

反乱の経過

加冠の儀は、咸陽から150キロ離れた雍で行われるため、太后を含め要人は全て雍に集結します。

北は楚国に侵攻され、東は魏軍と戦い主力の兵はそちらに集まっている中、毐国軍は咸陽を目指しました。

函谷関はすでに呂不韋の根回しがあったので、軍は易々と通ることができました。

咸陽と函谷関を結ぶ北道で、秦軍との乱闘が勃発し、樊於期は投降した守備兵千人の斬首するよう反乱軍に命令しました。

そして、渭水(いすい)と呼ばれる川を渡り、飛信隊は蕞兵と共に参戦します。

咸陽の門は、呂不韋の指令によって内側から開けられてしまいますが、昌平君が予め黒騎兵を配置していました。

信は後宮にいた政の娘・麗を救い、樊於期の息子である樊琉期を捉え、昌平君が進軍したことによって敵将である戎翟公(じゅうてきこう)も打たれました。

 

反乱の結果

反乱は昌平君の裏切りのおかげで失敗に終わりました。

あらかじめ飛信隊の河了貂(かりょうてん)に、反乱の意図を暗号に隠して伝え、蕞の民を呼び寄せておき渭水で船の手配もしました。

そして昌平君の参戦のおかげで、敵将・戎翟公を打ち、嫪毐は捉えられました。

謀反者である嫪毐は、四肢を引き裂かれる車裂きの刑で処刑され、太后は幽閉されました。


毐国大臣・虎歴(これき)についても

主に毐国の反乱に導いていたのは、臣下の虎歴でした。

各国は毐国に金を献上し、機嫌取りに来るのをみて、嫪毐は咸陽に献上された金の半分を咸陽に送るのが勿体ないと思うようになりました。

そして、咸陽を落としてしまえないかと考えるようになりますが、太后はそれを諌めました。

しかし虎歴は嫪毐のわずかな隙を見逃さず、謀反を起こす体制を少しずつ整えていきました。

虎歴とは?

虎歴は毐国の大臣ですが、もともとは楚国の出身で、楚王の手先として毐国に忍び込んだと太后は推測していました。

将軍・樊於期とともに毐国反乱の用意を着々と進め、側近を買収し嫪毐に対し秦に進軍させるよう促しました。

敵国の楚にとっては、毐国が暴走してくれれば、秦が乱れて国力が下がるので侵攻がしやすくなります。

太后は偽の玉璽を使い、函谷関を抜けられるように仕組み、兵力も三万と万全の体制を整えて秦に進行しました。

しかし毐国がいくら国力が増大したからと言っても、秦と戦って勝つことは到底不可能でした。

 

まとめ

毐国の反乱についてまとめましたがいかがだったでしょうか。

安住の地として毐国を建国した太后ですが、黒い思惑により謀反を起こさざるを得ない状況になってしまったのですね。

この反乱の手法は、屯留の戦いと似通っているところがあり、太后も呂不韋と向き合った時全て彼の策略によって行われたことを悟りました。

自分が天下を取るために、多くの人民を犠牲にし争いを起こす呂不韋にはなかなか共感ができそうにありません。

反乱後、嫪毐は処刑され太后は幽閉されてしまいますが、その後の太后が子供達とともに安らかな日々を送れたらと願います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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