【おちょやん】須賀廼家千之助のモデルは?喜劇俳優・曾我廼家十吾の経歴についても

朝ドラ「おちょやん」で、一平の父、天海天海とともに喜劇一座を率いていたのが、喜劇界のアドリブ王と言われた須賀廼家千之助(すがのやせんのすけ)です。

ほっしゃんこと星田英利(ほしだひでとし)さんがインパクトのある演技をしています。

須賀廼家千之助のモデルは喜劇俳優の曾我廼家十吾(そがのやじゅうご)です。アドリブ王として活躍しました。

曾我廼家十吾について調べてみました。

 

【おちょやん】須賀廼家千之助のモデルは?

須賀廼家千之助のモデル・曾我廼家十吾(そがのやじゅうご) ↓


引用:https://www.shochiku.co.jp/shinkigeki/cast/meiyu/

曾我廼家十吾(そがのや とうご)と読まれることもあるそうです。


喜劇俳優・曾我廼家十吾の経歴について

本名は西海(さいかい)文吾で、1891年、兵庫県神戸市に生まれました。橘小学校中退だそうです。芝居の世界に入ったからですね。

俄芝居で初舞台。

9歳で地元の俄(にわか)芝居※で大門亭文蝶の名で初舞台。

※俄(にわか)とは、江戸時代から明治時代にかけて、宴席や路上などで行われた即興の芝居

1906年(明治39)曽我廼家十郎に弟子入り、文福と名のります。

のち各地を転々とし、十郎の死後五郎の一座に入り十吾と改名しました。

1924年に永井茶釜とのコンビで文福茶釜一座を結成し主に九州一体で活動、1927年に曾我廼家十吾と改名します。

松竹家庭劇を旗揚げ

1928年(昭和3)渋谷天外(しぶやてんがい)と松竹家庭劇を旗揚げしましたが46年(昭和21)に決別、48年に再度組んで松竹新喜劇をおこしました。

1956年にいったん退団、翌年松竹家庭劇再興、65年解散。その後は松竹新喜劇にゲスト出演しました。

1974年4月7日、82歳で死去します。

淡々として枯れた芸風で、とくにおばあさん役が得意でした。

また茂林寺(もりんじ)文福の筆名による脚本も多数書いています。

 

「おちょやん」での役どころ

須賀廼家千之助を演じる星田英利さん ↓


引用:YOSHIMOTO

須賀廼家千之助は、日本でいちばんおもしろいのは自分であるとの自負を持っています。

一平の父、天海天海とともに喜劇一座を率いていましたが、とっぴな行動で周囲を振り回す破天荒な男です。

千代と一平にとっては、師匠であり、ライバルであり、トラブルメーカーでもある、という役どころです。

NHKのインタビューで、千之助を演じる意気込みを話しています ↓

https://www.nhk.or.jp/osaka-blog/ochoyan/interview/441421.html


実際の曾我廼家十吾

1908年、巷では「曽我廼家喜劇」が大人気でした。

松竹はそれを見て、「楽天会」という気劇団を立ち上げます。その中心人物が初代・渋谷天外でした。

初代・渋谷天外が亡くなると、「楽天会」もやがて解散、2代目渋谷天外となる当時の一雄は、曾我廼家十郎に師事して脚本家修行に励みます。

1928年には曾我廼家十吾たちと「松竹家庭劇」を結成して2代目渋谷天外を襲名します。

天外は座長になりますが、15歳年上の十吾は兄貴分でトップスターの地位にありました。

十吾はおばあさん役を得意とし、十郎の弟子でもあったことからその資質を受け継ぎ、アドリブが得意で、舞台上で急に脚本を変えることもあったと言います。

浪花千栄子は後に、自著で、十吾との共演は「寸分の油断も許されなかった」と記しています。相手をしていると脂汗がにじみ出て体重が減るくらい」とも書いてありました。ダイエットになるかも(笑)

十吾は「トンズラの十吾」というあだ名があるくらい自由気ままだったので、天外たちは苦労したことでしょう。

まとめ

須賀廼家千之助のモデルの喜劇俳優の曾我廼家十吾(そがのやじゅうご)について見てきました。

「おちょやん」に彦爺の役で出ている曽我廼家文童さんは、曾我廼家十吾の弟子だったそうですよ。

それにしても役者さんの名前は漢字が難しいですね。

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