菊池寛の「マスク」はスペイン風邪を取り上げた短編小説です。
菊池寛記念館で、この作品をウェブ公開していると地元の新聞で知り、読んでみました。
こちらの記事では「マスク」の感想と、スペイン風邪を題材にしたほかの作品についても見ていきます。
目次
菊池寛「マスク」の感想!
「マスク」は1920年7月、文芸誌「改造」に発表された作品で、菊池寛はこの時30代前半だったそうです。
>>菊池寛「マスク」
上下2段、5ページの作品ですぐ読めました。
前半のあらすじ
前半は、菊池寛が体調が悪くなって、少しも気休めやごまかしを言わない医者から、心臓の弱いことをはっきりと告げられて落ち込む様子が描かれています。
その率直な診断を受けて、自分の体の弱いことを自覚するようになり、その頃から流行性感冒が流行りはじめて、予防のため外出を控えるようにしたことなどが書かれています。
その様子ですが、外出を控え、妻や女中にも控えるように言ったそうです。
そして、朝晩うがいをして、出かけるときはマスクをし、帰ったらまたうがい、と今の私たちと同じようなことをやっていました。
来客にも神経質になり、咳をしている人や熱っぽい人が来たときは、帰った後暗い気持ちになったそうです。
新聞には毎日の死者数が報告され、それに一喜一憂したなど、まるで今、コロナ禍の私たちを描写しているようでした。
100年前にも同じような状況があり、同じような行動や感じ方をしていたとは、歴史は繰り返すものなのですね。
100年前に起こったことがすっかり忘れ去られたように、今の状況も数年すれば「そういえばそんなこともあったね」となるのでしょうか。
後半のあらすじ
後半はマスクについてです。
感染を心配した菊池は、周りの人たちがマスクを外すようになっても、つけ続けていました。
そんな時に、同じようにマスクをつけている人を見ると、頼もしく感じ、ある種の同士であると感じたそうです。
つまり、そのような人を見ると、誰も付けていないのにつけていることの照れくささから逃れられたからです。
やはり人と違うことをするのには「マスクをつけるかつけないか」のようなことでも、自己主張のようなものが現れてしまうということでしょう。
面白いのはこの後で、5月になると菊池もマスクをつけなくなったのですが、その頃にまた流行性感冒がぶり返したという記事が新聞に出て、「イヤな気になった」そうです。
でも、陽気が良いのでマスクはもうせずに、晴天のある日野球を見に行ったところ、自分を追い越した青年が黒いマスクをしているのを見て、ショックを受け、憎悪を感じたそうです。
天気が良く、久しぶりに野球の観戦にいく、といったウキウキするようなときに、感冒の脅威を思い出されたからでしょう。
それにしても「憎悪を感じた」とは極端な気がしないでもないですが、ちょっとしたことで憎悪を感じたりするのは、誰でもあることなのだと思うとちょっと気が楽になります。
しかし、菊池はそれよりも、自分がマスクをつけているときは、マスクをつけている人を見るのが嬉しかったのに、マスクをつけなくなると、つけている人に不快感を感じる自分の気持ちに対しての憤りがあったようです。
また、みんながマスクをつけないでいるときに、マスクをつけて大勢の中に入っていった青年=強者に対する弱者の反応だった、とも述べています。
感想
菊池寛については、文豪という印象でしたが、日常生活についての作品も多数書いていることを知りました。
「マスク」を読んで、とても自分の感情に対して正直な人だなあと思いました。
嫌な感情もしっかり感じて、それがどこから来るのかを分析しています。
だからこそ後世に名を遺す小説が書けたのだと思います。
また、この作品からは自分と違う他者をどう感じるか、というテーマも感じます。
誰もがマスクをつけなかった時には気づかなかったことですが、マスクをつけている人とつけていない人が出てきたときに、ある意味人の分断が起こり、自分がどちら側かで、違う側を不快に思ってしまう、という心の動きが読み取れます。
自分と同じグループを肯定し、違うグループを否定的に見てしまう、という事が容易に起こりうるのだと分かります。
菊池寛のように、その感情がどこから来るのかを分析して、自分の側の原因を探ることが必要だと思います。
そうしないとむやみに人を攻撃してしまうことになりかねません。
これは今まさにコロナ禍で起こっていることではないでしょうか。
マスクに限らず今のコロナの状況は、人と人を分断しています。
家族や知人とも容易に会えない、以前なら普通に行われていた会合や観劇、コンサート、旅行など多くのことができない状況です。
その中で私たちが何を感じてどう生きるかを試されているような気がします。
スペイン風邪を題材にした他の作品
菊池寛は、「マスク」以外にもスペイン風邪を取り上げた作品を書いていました。
「簡単な死去」
(大正 8 年 10 月)『菊池寛全集 第 2 巻』所収
主人公が勤める新聞社で、沢田という記者が流行性感冒で急死します。沢田は同僚から好かれておらず、故郷の家族とも疎遠でした。
誰かがお通夜に行かなければなりませんが、伝染病による死と、沢田の人望の無さのために、みんな嫌がります。仕方なくクジ引きでお通夜に行く人を決めました。
沢田の死が簡単に扱われている原因は、身近な人が死ぬ一方、自分は病気に罹かからず無事でいることを、無意識に喜んでいるからではないか…と主人公が感じる作品です。
引用:菊池寛記念館通信
これも今の状況とよく似ていますね。
コロナ禍での人の死は、通常の葬儀もできず、死者と対面できずに気の毒ですが、当時の感染症の死は隔離などの対策もきちんとせずに行われたのでしょうから、行くのを嫌がる気持ちも分かります。
それにしてもお通夜に行く人をくじ引きで決められる沢田さんって・・・そんな風にはなりたくないと思ってしまいました。
自分が無事でいることを、無意識に喜んでいる、というのに関してはそうなのかなぁ、という感じです。
私の場合は、喜んでいる、という気持ちはなく、いつかかってもおかしくない、と覚悟しながら日々暮らしています。
菊池寛について
享年59歳
菊池寛は、見た目とは違って病弱であったため、運動などは控えた生活で、常に死を意識していたようです。
享年は59歳で、やはり若くして亡くなっています。
死因は狭心症で急死でしたが、自宅で夫人の手を握りしめてなくなったそうです。
胃腸障害から回復した全快祝いをするのに、近親者を集めて好物の寿司を食べ、2階に上がってすぐに発作を起こして亡くなったということで、自分の死を予期していたのかとも思えました。
最後に近親者にも会え、好物を食べてから亡くなったのは幸せな死に方ではないでしょうか。
遺書も用意されていて、以下のような内容だったそうです。
私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。
吉月吉日 菊池寛引用:ウィキペディア
菊池寛の功績
菊池寛は、「恩讐の彼方に」や「真珠夫人」などで有名な小説家であり、雑誌「文藝春秋」を創刊した実業家でもありました。
また、東京市会議員を務めたり、大映社長就任の経歴もあります。
いろいろな才能を持つ行動派だったのですね。
第一高等学校で同期だった芥川龍之介、久米正雄などを始め広い交友関係を持ち、豪放磊落な性格により、多くの人の人生に影響を与えたようです。
菊池寛については興味が尽きないほどエピソードがたくさんある方でした。
井上ひさしさんの著書に詳しいです↓
まとめ
コメントを残す