【エール】小山田耕三(志村けん)のモデルは誰?山田耕筰の功績や人間性についても

朝ドラ「エール」に志村けんさんが出演していましたね。裕一が尊敬する作曲家・小山田耕三の役でした。

小山田耕三のモデルは山田耕筰と言われています。

山田耕筰について、功績や人間性、戦時中の活動なども含めて調べてみました。

 

【エール】小山田耕三(志村けん)のモデルは誰?

志村けんさんは、古山裕一(窪田正孝)が尊敬し、本を読んで勉強した偉大な作曲家・小山田耕三役を演じています。

小山田耕三役にはモデルがいて、山田耕筰です。


引用:Wikipedia


山田耕筰の功績や人間性についても

山田耕筰は1886年(明治19年)に生まれた作曲家、指揮者です。

童謡「赤とんぼ」や「ペチカ」など、誰でも聞いたことがある歌を多数作曲しました。

また、日本で交響曲やオペラの第一人者でもあります。

大正から昭和の時代にかけ、日本における西洋音楽の基礎を作るうえで大きな貢献をしました。

山田耕筰が音楽を志した理由

姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきを受けたことから、音楽の道が始まります。

東京音楽学校に進学し、卒業後、3年間ドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学しています。

実業家としての才能

山田耕筰は経営能力に長けており、演奏会を演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任したり、現在のNHK交響楽団の前身である日本交響楽協会を、近衛秀麿と共に設立したりしています。

また、弟の山田鐵雄と共にオート三輪型の試作車を作るなど、音楽以外でも才能を発揮しています。

残念なことに、この試作品は時期尚早のため、事業化などの発展はないままに終わりました。

「カルピス」を命名

「カルピス」の商品名・社名を命名したのも山田耕筰です。「エール」のお話しの中でも、裕一の「露営の歌」が50万枚を突破した時に、ディレクターの廿日市がカルピスを持って裕一の家にご機嫌伺いに来ていました。

また、「ここに泉あり」という映画に本人役で出演したこともあります。

もちろん、本業の音楽に関しては多作で、童謡・唱歌からオペラ・交響曲、校歌・社歌、管弦楽曲・ピアノ曲などあらゆる分野の曲を書いています。

管弦楽曲・室内楽曲などの作品は未出版のまま戦災により焼失してしまったものも多いという事でとても残念です。

女性関係はルーズ

プライベートでは女性関係にルーズな一面もあり、自作のすき焼きをふるまいながら猥談に興じることもしばしばあったとか。

弟子のひとり、團伊玖磨は「山田先生は、女性関係にルーズだった。あれほど野放図じゃあね。現代なら、セクハラで社会から葬られてる」と話したそうです。

山田耕筰の女性関係については週刊誌で書かれたこともあり、それを読んだ小山裕而が失望したことを手紙に綴っていたそうです。

結婚後すぐに別の女性と関係を持ち、翌年離婚した時には、パトロンの三菱財閥総帥・岩崎小弥太の逆鱗に触れ、自ら立ち上げた日本初の交響楽団「東京フィルハーモニー会」が解散になったこともありました。

戦時中は軍部に協力

1941年(昭和16年)、情報局管轄下の「日本音楽文化協会」が発足しますが、山田耕筰は副会長に就任します。

また音楽挺身隊を結成してしばしば占領地での音楽指導にも携わりました。

1942年(昭和17年)に帝国芸術院会員に選出され、1944年(昭和19年)には日本音楽文化協会会長となります。

戦争に協力したことで地位を固めたようです。軍歌や戦時歌謡も多数作曲しました。

戦争中は将官待遇となり、しばしば軍服姿で行動します。そのため後の「戦犯論争」の槍玉に挙げられることとなりましたが、特に糾弾はされなかったようです。

戦後も、1950年(昭和25年)、日本指揮者協会会長に就任、また放送文化賞受賞、1956年(昭和31年)には文化勲章を受章しています。

まとめ

今回は、朝ドラ「エール」で裕一の尊敬する作曲家で、志村けんさんが演じる小山田耕三のモデル・山田耕筰について見てきました。

調べるほどに豪放磊落な姿が見えてきました。

今ならセクハラ・パワハラで訴えられているかもしれません。

しかし日本の音楽界に果たした貢献は大きいものでした。才能は音楽にとどまらず多方面に渡りました。

山田耕筰がモデルの小山田耕三と、裕一の関係についてはこちらに書いています ↓

【エール】小山田耕三が流行歌の赤レーベルに裕一を推薦した謎が明らかに!考察と志村けんの演技も

 

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