6月2日の朝ドラ「エール」で、裕一は2枚目のレコードを吹き込みます。売れっ子作詞家の高梨一太郎の「船頭可愛や」に曲を付けたのです。
当時芸者が歌を歌うのが流行っていました。歌うのが芸者と聞いて、裕一の幼なじみの佐藤久志や村野鉄男は色めきます。中でも有名だったのが萬龍と言う芸者さんでした。
萬龍はどんな芸者さんだったのでしょうか。
目次
エール47話に出てきた芸者・萬龍とは?
萬流さんの本名は田向静。東京日本橋で生まれました。父親が肺病となり一家は困窮し、7歳のとき東京赤坂花街の芸妓置屋の養女になります。
贔屓客の長島隆二は次のように述べていたそうです。「小柄で、よく見ると抜きんでるほどの美人でもなく、芸も接客も大したことがないのに、そういったことを超越する不思議な魅力と雅味を持ち合わせていた」
魅力的な人だったのですね。
谷崎潤一郎は「青春物語」の中で萬龍を回想して、「当時の一流芸妓の人気、社会的地位は「今の第一流のキネマ・スタア」もはるかに及ばないだろう」と記したそうです。
昭和初期の芸者の位置づけ
昭和初期は芸者の最盛期と言われています。
江戸時代から300年以上の歴史を持つ芸者ですが、昭和初期が最盛期と言われています。
明治になると、芸娼妓解放令が発布され人身売買が禁止されます。 年季奉公は禁止され、更に借金も棒引きされたので、芸者は晴れて自由な身となりました。
その後は芸者になりたい者は届出をして鑑札(営業許可証)を受けとることになります。この規則の発布を期に、全国で新しい花街が生まれることになったのです。
萬龍(まんりゅう)は明治末に「日本一の美人」と謳われ、人気を博した芸妓さんです。2歳下の照葉とともに東京の二名妓とも呼ばれることもあるそうです。
引用:ウィキペディア
昭和初期の花柳界について
赤坂花柳界
明治から昭和初期にかけて、赤坂花柳界は目覚ましい発展を遂げました。新政府の高官や政治家を受け入れた新橋が新政府の高官や政治家を受け入れたのに対し、赤坂は軍人を受け入れて発展しました。
「萬龍」は明治41年に、文芸倶楽部の美人投票で全国一位になり、赤坂花柳界の名を全国に広めました。
新橋花柳界
新橋花柳界は新橋という土地柄、政府高官の客が多く、発展に繋がりました。一流の家元や名人を師匠に迎え、新橋に籍のある芸者であれば三円の月謝で好きなだけ稽古を受けてよいという制度があったそうです。
そのため新橋芸者の芸は劇的に向上し、後に「芸の新橋」と言われるようになったという事です。
芸者はアイドルだった!
当時の一流芸妓は多くの男性の憧れの対象であり現在のタレント、アイドルに相当する存在だったという事です。
なので、裕一のレコードを歌うのが芸者と聞いた久志や鉄男が興奮して録音スタジオまで押しかけたのですね。
実際に歌うのが芸者で泣く下駄屋の娘だと分かってがっかりしますが、歌った藤丸の歌を聞いて、そのうまさに今度は驚きます。
藤丸は久志に恋心を持つようなので、それも気になりますね。
「船頭可愛や」を歌う藤丸役を演じる井上希美さんについての記事はこちらです。
まとめ
今回は昭和初期に人気だった萬龍さんについてのまとめでした。不不思議な魅力を持った芸者さんだったのですね。
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