朝ドラ「エール」36話では、早稲田大学応援部団長の田中隆(三浦貴大)率いる団員たちが裕一の家に押しかけ、応援歌「紺碧の空」の作曲を頼みます。
裕一は最初乗り気ではなかったのですが、あることを聞いて引き受ける気になりました。
それは何だったのでしょう?
目次
【エール】裕一はなぜ紺碧の空の作曲を引き受けた?
それは、早稲田大学の応援歌を、尊敬する小山田耕三(志村けん)も作曲していたからです。尊敬する小山田先生が作っているのなら、自分も挑戦してみよう、という気になったのでした。
佐藤久志が裕一を推薦した
そもそも裕一に白羽の矢が当たったのは、応援団部に裕一の幼なじみ佐藤久志(山崎育三郎)のいとこがいたことから、久志のところに、作曲してくれる人がいないかを応援団が相談に行ったことがきっかけです。
久志は幼なじみの裕一を推薦したのでした。
小山田耕三が第一応援歌を作曲していたから
引き受けるつもりのない裕一のことを音が久志に話すと、久志が「早稲田大学の応援歌は小山田耕三も書いたことがある」と言って、音がそれを裕一に伝えると、尊敬している小山田耕三が書いたのなら、と裕一もその気になるのでした。
⾳のセリフ
「私はやるべきだと思う。早稲⽥⼤学の第⼀応援歌は⼩⼭⽥先⽣が作っているから、先⽣と同じ⼟俵に⽴つってことじゃん。名誉なことだよ」
この言葉が裕一を動かしたのです。
応援部が乗り込むシーンの撮影現場 ↓ ↓
突然古山家に乗り込んできて裕一にすごむ早稲田大学応援部でしたが、撮影現場は和気あいあいとしていました♪
胴上げシーンもあります🤭#朝ドラエール#早稲田大学#紺碧の空#窪田正孝#三浦貴大#1月に撮影 pic.twitter.com/qhOrSMBs3t— 連続テレビ小説「エール」 (@asadora_nhk) May 17, 2020
早慶戦に見る応援歌の役割
早稲田と慶応の応援合戦の過熱は明治36年(1903年)に早稲田大学の野球部が慶応大学野球部に挑戦状を出したことから始まりました。
当時早慶戦は日本国民みんなが注目する一大イベントでした。応援が盛り上がり過ぎて応援を中止としたこともあったそうです。
その後東京6大学野球の創設と共に応援も復活しました。
慶応は、早慶戦に連敗していたことから、「若き血」という応援歌を作り、連敗を止め、なんと11連勝もしたのです。
慶応大学ワグネルソサイエティの「若き血」 ↓ ↓
早稲田の応援団は「若き血」に対抗するような力強い応援歌を作りたい、と思いました。
そこでまず、学内で詩を公募して、当時早稲田大学の教授だった西城八十の選定で「紺碧の空」が選ばれ、曲を誰に頼もうか、ということになったのでした。
作詞をしたのは当時高等師範部3年の住治男(すみはるお)で、一字の修正も加える必要がない、と西城八十が絶賛したといいます。
「紺碧の空」誕生については、こちらのサイトが詳しいです。
早稲田大学グリークラブの「紺碧の空」 ↓ ↓
応援歌は野球ではとても大事なもので、観客が一丸となって歌い、選手の士気を高め、鼓舞します。選手と観客、球場が一体となって試合を作り上げるのです。
応援歌は野球の試合に大きな役割を持つものなのです。
まとめ
「紺碧の空」誕生までの経過を見ていると、歌の力、音楽の力がいかに人の心に響き、人を動かすのか、という事に改めて気づかされます。
今回は、裕一が「紺碧の空」の作曲を引き受けるに至った経緯についてまとめました。
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