【エール】山藤太郎のモデルの歌手は?藤山一郎の経歴についても

「長崎の鐘」を完成させた裕一(窪田正孝)は、山藤太郎(柿澤勇人)に歌ってほしいと頼むのでした。

山藤太郎のモデル藤山一郎について見ていきます。

 

【エール】山藤太郎のモデルの歌手は?

山藤太郎のモデルの歌手は藤山一郎(ふじやまいちろう)さんです。


引用:columbia

苦労して「長崎の鐘」を書きあげた裕一(窪田正孝)は、その歌を戦争経験のある山藤太郎(柿澤勇人)に歌ってほしいと頼むのでした。

プロフィール

出姓名 増永 丈夫
別名 ピンちゃん
生誕 1911年4月8日
死没 1993年8月21日(82歳没)
出身地 東京府東京市日本橋区蛎殻町
学歴 東京音楽学校

藤山一郎さんは、東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)を首席で卒業します。

1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『東京ラプソディ』『青い山脈』『長崎の鐘』など数多くのヒット曲を世に送ります。

歌唱は理論・楽典に忠実で、格調高い歌声として知られました。

1992年スポーツ選手以外では初めて国民栄誉賞を生前受賞しました。


藤山一郎の経歴

藤山一郎は、モスリン問屋・近江屋の三男として生まれました。

恵まれた生い立ち

経済的に大変恵まれた環境で、幼少期からピアノを習ったり、日本女子音楽学校(後の日本音楽学校)に通って賛美歌を歌ったり、楽譜の読み方を教わったりと、音楽を学ぶのに大変良い環境で育ちました。

1918年慶應義塾幼稚舎に入学。このころには楽譜を読めるようになっていて、童謡の公演にも出演しました。

慶應幼稚舎時代には『春の野』(江沢清太郎作曲)などをレコードに吹き込んだこともあります。

在学中は、楽典・楽譜を読み、ピアノ・ヴァイオリンを修練することに専念しました。成績は常にトップだったという事です。

慶應義塾普通部ではラグビー部に入部して運動にも打ち込みました。この時期の藤山の学業成績は、音楽と体育以外は悪かったそうです。

「若き血」の歌唱指導

慶應の応援歌『若き血』がつくられたとき、早慶戦に向けて普通部に在学中の藤山が学生の歌唱指導にあたりました。

藤山は、上級生でも歌えない者に対しては厳しく指導したため、早慶戦が終わった後、普通部の5年生に呼び出され、脅され殴られたエピソードもあるそうです。

慶應義塾在籍中は福澤諭吉が説いた奉仕の精神を身につけ、後にロータリークラブやボーイスカウトに協力し、福祉施設に慰問をするなどの慈善活動につながりました。

名前を変えてレコード吹き込み

音楽学校生活進学後、昭和恐慌の影響で実家のモスリン問屋の経営が傾き、借金を抱え廃業しました。

藤山は家計を助けようとレコードの吹き込みの仕事を始めるようになりました。

これは校外演奏を禁止した学則に違反する行為であったため、「藤山一郎」の芸名を用いることにします。

名前の由来は、親友・永藤秀雄の名前と「富士山」から採られたものだそうです。

古賀政男の曲で大ヒット

藤山は1931年から1932年にかけておよそ40の曲を吹き込みます。

代表曲は古賀政男が作曲した『酒は涙か溜息か』で、100万枚を超える売り上げを記録しました。

続いて『丘を越えて』のヒットによって藤山は一気にスターとなります

大学にばれて停学に

有名になったことからアルバイトが大学にばれて退学を勧告されます。しかし藤山を評価していた教諭らが退学に反対し、今後のレコード吹き込み禁止と停学1か月の処分に落ち着きました。

このころ藤山はアルバイトで得た収入をすべて母親に渡していたそうです。

停学の1か月は学校の冬休みに当たり、実質的な処分は科されなかったようでした。

この時、藤山はまだ吹き込みを行っていなかった『影を慕いて』を既に吹き込み済みであるとして学校にリストを提出し、発行を可能にしたそうです。

この後藤山は学業に専念し、その後東京音楽学校を首席で卒業しました。

レコード歌手となる

若い頃の藤山さん ↓


引用:Wikipedia

藤山はレコード歌手になって実家の借金を返済したいという思いが強く、卒業直後にビクターに入社し、同社の専属歌手となりました。

ビクター時代には大ヒット曲には恵まれませんでしたが、アカデミズムに偏ることもなく、低俗趣味は避け、みんなが楽しめる音楽の紹介と、そのプレーヤーとして生きる、という思いで、様々なジャンルの歌を歌い、充実した日々であったそうです。

その後古賀と再びコンビを組むためテイチクへ移籍しました。内閣総理大臣の月給が800円という時代において、契約金は1万円と破格の値段だったそうです。

1936年古賀が作曲した『東京ラプソディ』が大ヒットし、生家の借金を完済することができました。映画も作られ、藤山が主演しています。

戦争中は慰問に参加

1937年盧溝橋事件をきっかけに、政府は戦意を高揚させる曲の発売を奨励し、ユーモア・恋愛・感傷をテーマとした歌の発売を禁止する指示を出します。藤山も戦争中は戦意高揚のための曲を多数吹き込みました。

戦時中藤山は南方慰問団に参加します。それは音楽の先進国であるヨーロッパへ渡りたいという思いと、祖国の役に立ちたいという思いから加わりました。

戦争が終わると藤山は独立を宣言したばかりのインドネシア共和国の捕虜となり、刑務所に収容されます。その後「鞍馬村」と呼ばれるは三菱財閥が運営していた農園に移動します。

そこで藤山は休日になると海軍の兵士だった森田正四郎とともに各地の収容所を慰問して回りました。

インドネシアとイギリスとの間に一時的な停戦協定が成立したため、藤山はリアウ諸島のレンパン島に移送された。この島で藤山はイギリス軍の用務員とされ、イギリス軍兵士の慰問をして過ごしたそうです。

藤山が帰国したのは1946年7月のことで、戦争が終わってから約1年後でした。

戦後歌手活動再開

帰国後藤山は歌手活動を再開します。1949年には永井隆の随想を元にした作品で、古関裕而が作曲した『長崎の鐘』がヒットするのです。

永井隆と藤山の間には交流が生まれ、永井が療養していた如己堂に永井を見舞ったこともありました。

『長崎の鐘』のレコーディング時に、藤山一郎は高熱を出していたそうです。後に撮り直す予定でしたが完成度が高かったためそのままレコードにしたという事です。

 

「エール」での役どころ

山藤太郎の役は柿澤勇人(かきざわひろと)さんが演じています。

「長崎の鐘」を書きあげた裕一は、山藤太郎に歌うのを頼みます。

それは戦争に行って捕虜になった経験があり、戦争の悲惨さを知っている山藤だからこそ歌える、と思ったからでした。

柿澤さんは、長崎の鐘」を歌うにあたり、藤山一郎さんの歌唱を研究したそうです。藤山さんのご家族には「父にそっくり」と言ってもらえたようですよ。


まとめ

今回は、山藤太郎のモデル藤山一郎についてのまとめでした。

藤山一郎さんの歌声で励まされた人がたくさんいるのですね。

 

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