【エール】画家今村嗣人のモデルは藤田嗣治!恋人の環との関係についても

6月19日の朝ドラ「エール」は、国際的オペラ歌手・双浦環(柴崎コウ)の若い頃のパリでの様子を描いていました。

環はパリで画家の今村嗣人(いまむらつぐひと)と知り合い恋人同士になりますが、環がプッチーニの蝶々夫人の役を射止めることで今村の嫉妬が爆発してしまいます。

今村は環の成功が許せずに歌をやめてくれとまで言うのです。

金子ノブアキさんの迫真の演技に芸術家の苦悩が現れていました。

 

【エール】画家今村嗣人のモデルは藤田嗣治

今村嗣人のモデルは画家の藤田嗣治(ふじた つぐはる)さんです。

切りそろえた前髪が特徴的ですね!

藤田嗣治の経歴

幼少~パリ留学まで

藤田嗣治は1886年東京生まれ、幼少期より絵を描き始め、高等師範附属中学校(現・筑波大附属中学・高校)を卒業後、森鴎外の薦めもあって東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学しました。

しかし藤田の画風は当時の日本の主流と合わなかったため、学業成績は悪く、もっぱら遊びに時間を費やしたそうです。

第一次世界大戦前よりフランスのパリに行き、活動を始めました。

得意な画題は猫と女性で、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像で西洋画壇の絶賛を浴びました。

当時世界各地からパリのセーヌ河左岸のモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちがたくさんいて、エコール・ド・パリと呼ばれていました。

藤田嗣治は、その代表的な画家でした。

他にモディリアーニ、シャガール、スーティン、パスキン、キスリング、マリー・ローランサンなどがいました。

また、キュビスムの代表的画家のピカソはセーヌ河右岸のモンマルトルにいたそうです。

3回の結婚とその後

藤田は渡仏前の1911年に長野県の木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』などの作品を描きました。

このころ女学校の美術教師であった鴇田登美子(鴇田とみ)と出会って、2年後に結婚しています。

しかし藤田はフランス行きを決意し、妻を残して単身パリへ渡航したため、最初の結婚は1年余りで破綻となりました。

フランスではカフェで出会ったフランス人モデルと2度目の結婚、しかし不倫の末離婚、フランス人女性と3度目の結婚をしますがこれも破綻します

1939年に日本に帰国しますが、終戦後の連合国軍占領下の日本において「戦争協力者」と批判され身を追われたりしたことで日本に嫌気がさし、1949年にふたたびフランスに戻り帰化しました。

 

恋人の環との関係について

藤田嗣治がモデルとされる今村嗣人(金子ノブアキ)は、ドラマの中で双浦環と出会い、恋人になります。

始めは今村嗣人のほうがパリでの生活が長く、双浦環が異国での生活に慣れるように教えてあげたりしていたようですが、その関係は次第に変わってきます。

今村嗣人パリでなかなか認められず焦りを感じていましたが、環は思い切ってミラノまで受けに行った「蝶々夫人」のオーディションをきっかけに、歌手になるチャンスをつかみます。

環が美しく目立つこともあり、嗣人は周囲から環について聞かれることが多くなりますが、そのことを素直に喜べず複雑な気持ちを抱えることになるのです。

嗣人が友人たちとカードゲームをしているときの会話

ゲームをしている時とても姿勢のいい嗣人さん(笑)

(C)NHK

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友人1「環さん、美人だよな~」

友人2「日本人界隈ではかなり有名人です」

友人3「みんな狙ってるよな」(嗣人の様子を伺い)「ははっ、冗談冗談」

友人1「環さんは嗣人に惚れてるから」

友人2「おまえいいな~、あんな彼女がいて」

友人3「俺もあんな彼女ほしいわ~」

嗣人「もう環の話はいいよ」

友人1「そもそも環さんとはどこで知り合ったの?」

嗣人絶叫「もういいって!」

友人たち「………」

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金子ノブアキさんが複雑な心境を見事に演じていました。

環に嫉妬の気持ちをぶつけるシーン ↓ ↓

個人的な感想としては、こんな風に「嫉妬してる」とはっきり言えるのは健全だと思いました。

「嫉妬してる」など相手に言える人はそうはいません。普通は嫉妬の感情を自分でも気づこうとせずに相手に接するので泥沼関係に陥るのです。

こんな風に言ってもらえたから環も嗣人のことをさっぱりあきらめて自分の道を進めたのではないでしょうか。

「エール」との違い

藤田嗣治は、双浦環のモデル三浦環と恋愛関係にあった事実はないようです。

実際に出会っていたかどうかも定かではありません。

しかし環は藤田よりずっと先に「蝶々夫人」で有名になっていたので、藤田は環の存在を当然知っていたと思われます。

環が「蝶々夫人」を演じたのが1915年で、そのころ藤田はまだ絵が一枚も売れていなく、困窮生活をしていたそうです。

藤田の絵が売れるようになり個展に人だかりができるようになったのは、それから2年を過ぎたころだったということです。

まとめ

しかし、芸術家としての国際的な成功を夢見るものが集まった当時のパリで、このような出会いがあったとしても不思議ではありませんね。

今回は今村嗣人のモデル・藤田嗣治についてのまとめでした。

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