朝ドラ・エール8話で音の両親が踊っていたワルツの曲名は?チャイコフスキーの三大バレエ音楽についても!

朝ドラ・エール」の第8話は、関内音(せきうちおと)の家庭の様子が主に話題になります。音の姉の吟(ぎん)の誕生会を家族で祝うシーンで、お父さんとお母さんがワルツを踊っていました。当時社交ダンスをする人は富裕層を中心にほんの少しで、音の家が豊かであったことが分かります。

お話の中では、「お父さん、ダンス見せて」という子どもたちのリクエストに応えて、お父さんがお母さんを誘って二人で踊り、そのあと相手を変えてみんなで踊っています。本当に楽しそうな関内家。しかしこれは関内家に訪れる不幸の伏線となっています。 

 

朝ドラ・エール8話で音の両親が踊っていたワルツの曲名は?

関内家、楽しそうですね。

音の両親が踊っていたのは、チャイコフスキーの「花のワルツ」

子どもたちのハミングに合わせて音の両親が踊っていたのは、花のワルツ(チャイコフスキー:バレエ組曲「くるみ割り人形」です。聞いたことありますよね。

花のワルツは、バレエ組曲「くるみ割り人形」で終わりの部分にある曲です。
とても有名な曲で、組曲としてではなく単体で演奏されることも多いようです。


チャイコフスキーの三大バレエ音楽について

花のワルツを作曲したのはチャイコフスキーで、1840年に生まれたロシアの作曲家です。

チャイコフスキーの三大バレエ音楽

チャイコフスキーの三大バレエ音楽と呼ばれるのは次の3つです。

1.白鳥の湖:魔法によって白鳥に変えられたお姫さまと彼女を救う王子の愛の物語

2.眠りの森の美女:王女が王子の愛によって100年の眠りから目覚める話

3.くるみ割り人形:少女が見たクリスマスの夜の夢

「花のワルツ」が入っているのはどのバレエ曲?

この中の3.くるみ割り人形の中に、「花のワルツ」が入っています。

日本の社交ダンスの歴史

大正時代には社交ダンスが流行っていたのでしょうか。日本の社交ダンスの歴史について調べてみました。

鹿鳴館について

日本で最初にダンスが踊られたのは、鹿鳴館でした。鹿鳴館は1883年(明治16年)にできた建物で、当時の外務大臣・井上馨が中心となって日本の近代化のために迎賓館としての目的で建設されました。

日本の社交ダンスの歴史

鹿鳴館では、カドリーユというスクエアダンスやウィンナワルツなどの、ウィーンの社交界スタイルのダンスが踊られました。この時は西洋から入って来た裾の膨らんだドレスが主に着られましたが、にわか洋装だったので、スタイルや着こなしがおかしかったりしたこともあったようです。また、これは上流階級の間だけで行われました。

日本で富裕層を中心に社交ダンスが本格的に行われるようになるのは、1918年(大正7年)に鶴見の花月園にダンスホールが開設されてからです。この時は主に着物に草履というスタイルで踊っていました。踊りにくかったことでしょうね。音の両親もこの時代に社交ダンスを踊ったようです。

一般庶民に社交ダンスが広まったのは戦後になってからで、第二次世界大戦後は進駐軍(しんちゅうぐん・他国の領土に進軍し、そこにとどまっている軍隊のこと)向けにダンスホールがたくさんできました。若い男女の出会いの場としてダンスパーティーが流行し、ジルバやマンボなどのアメリカンスタイルのダンスが流行りました。


まとめ

今回は音ちゃんの両親のダンスに関することについて書きました。

こんな風に大正時代にダンスを家庭で踊っている家庭があったのですね。本当に幸せそう。こんな日がずっと続けばいいのに・・

でも物語の展開的にはそうもいきませんね。第9話で先生が学芸会の練習中の音に重大なことを告げるようです。明日の回を見るのが恐いですが、現実を直視しなくてはいけませんね。(現実ではないですが・・)

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