【エール】「鐘の鳴る丘」の内容は? ラジオドラマのモデルとなった建物についても

戦争後、全く曲が書けなくなった裕一が再び曲を書けるようになったのは、池田二郎の粘り強い説得があったからでした。

裕一はラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌「とんがり帽子」を作曲します。

今回は、ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』について調べてみました。

 

【エール】「鐘の鳴る丘」の内容は?

『鐘の鳴る丘』(かねのなるおか)は、1947年から1950年までNHKラジオで放送されたラジオドラマのことです。その後映画にもなりました。

創作したのは劇作家の菊田一夫です。

「鐘の鳴る丘」の由来

共同生活の施設が丘の上にあり、とがった屋根の時計台に鐘を備えているというドラマの設定により、「鐘の鳴る丘」の題名が付きました。

戦後、空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていました。

主人公は復員してきた兵隊で、孤児たちと知り合い、やがて信州の山里で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描いたものです。

食べ物や物がなく、苦しかった時代に多くの人の共感を呼び、大ヒットとなりました。

主題歌「とんがり帽子」

主題歌「とんがり帽子」は、作詞が菊田一夫、作曲が古関裕而で、歌ったのは川田正子と児童合唱団のゆりかご会でした。

「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘が鳴りますキンコンカン……」

おとぎ話のようなイメージしやすい歌詞と、親しみやすく明るいメロディーは戦後の人々の暗い心を明るくするのでした。

「鐘の鳴る丘」の内容

戦争から復員してきた青年、加賀美修平が、戦災孤児たちのために、彼らの住める場所を信州に作ってあげようと努める物語です。

修平には修吉という名の弟がいましたが、空襲で両親を失い、修平が復員してきたときは孤児収容所に入っていました。

修平は東京に修吉を迎えに来て、たくさんの戦災孤児に会います。

親も家も失って街頭で靴磨きなどをして生きている子供たちを目の当たりにして、彼らのために安住の場を作ってあげたいと決意するのでした。

制作の背景

放送開始のきっかけは、1947年にフラナガン神父が来日したことです。

第二次世界大戦後、GHQのダグラス・マッカーサー元帥は、戦後日本の戦災孤児、中国大陸や満州からの引き上げ孤児への対策について助言を乞うということで、フラナガン神父を招きました。

フラナガンが離日した後に、CIE(民間情報教育局、GHQのもとで教育、メディア、宗教、芸術の4つの部門の諸改革を取り仕切っていた)はNHKに対し、フラナガンの精神を踏まえた戦争孤児救済のためのキャンペーンドラマを制作するように指示したのでした。

脚本担当の菊田、音楽担当の古関、俳優の巖金四郎や、NHK東京放送劇団の人たちの出演が決まりましたが、当時はプロの児童劇団もなく、主役となる子役を決めるのに苦労したそうです。

当時練馬区に在住していた巖が、東京都の演劇大会で優勝するくらいに演劇活動が盛んであった練馬区立豊玉第二小学校を紹介し、その小学校に在籍する10人前後の児童が出演することになりました。

当初は土日の週2回の放送だったので、出演者である小学校の児童たちが、教師の引率によって毎週練馬からNHK東京放送会館へ通い、生放送を行っていました。

放送は大人気

放送は大ヒットし、「回数を増やして」という聴取者からの投書がNHKに殺到したため、週2回から週5回へと放送回数を増やしました。

CIEはNHKに対して、当時最新であった連続15分の録音を可能とする録音機を提供し、収録は録音放送へと変更したそうです。

テレビ放送はまだなく、NHKラジオを聴くことが家庭での最大の娯楽だったので、聞いたことが無い人がいないくらいたくさんの人が聞きました。

一方で、一部の保護者や教育者からは「言葉づかいがひどすぎる」「教育上許せない番組だ」と評され、教育論争も起こりました。

しかし、菊田は批判にも動じることはなかったそうです。

 

 


ラジオドラマのモデルとなった建物

ドラマのモデルとして知られるのが、安曇野市穂高有明に残る「鐘の鳴る丘集会所」です。

現在は青少年の研修施設として利用されているそうです。

平成20年に安曇野市の有形文化財に指定されました。

毎日10時、12時、15時には、ラジオ番組の主題歌「とんがり帽子」のメロディーが流れるそうです。


引用:http://www.i-turn.jp/kanenonaruoka-shukaijyo-tongariboushi-kinkonkan.html

【問い合わせ先】穂高郷土資料館 電話:0263-83-8844

現在は研修施設のため一般の方の利用はできないそうです。ただ、集会所内の資料を見学希望の場合は、問い合わせ先へ事前に連絡すれば見せてくれるようです。

鐘の鳴る丘集会所の歴史

鐘の鳴る丘集会所は長野県安曇野市穂高有明にある近代洋風建築です。

遊郭の施設→温泉旅館→少年院

1905年に長野市に遊郭の施設として建てられた建物で、1919年に有明温泉が買取り現在地に近い場所に温泉旅館として移築改修、1921年から利用されてきました。

1926年に廃業となり、戦後の1946年から有明高原寮(法務省東京矯正管区所属男子少年院)として長く利用されました。

「鐘の鳴る丘」の舞台だったことから保存される

老朽化のため取り壊す予定でしたが、洋風旅館建築の遺構として貴重だったのと、菊田一夫作の「鐘の鳴る丘」の舞台となっていた事で安曇野市(当時の穂高町)が譲り受け、現在地(松尾寺公園内)に移築保存される事になったそうです。

建物は木造2階建で、手摺や、円柱、柱飾りなどに当時の洋風建築の要素が取り入れられている一方、バルコニーの彫刻は日本建築伝統の透かし彫りが施され、和洋折衷の建物となっています。

鐘の鳴る丘集会所は1982年に安曇野市(旧穂高町)指定有形文化財に指定され、現在は青少年の合宿訓練施設として利用されています。

まとめ

今回は『鐘の鳴る丘』のラジオドラマについて、またモデルとなった「鐘の鳴る丘集会所」についてご紹介しました。

このドラマの15分という枠が、今の朝ドラの15分につながっているそうですよ。

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