【エール】村野鉄男(中村蒼)のモデルは誰?作詞家野村俊夫の経歴についても

 

朝ドラ「エール」主人公の古山裕一(窪田正孝)の幼なじみ村野鉄男にモデルはいるのでしょうか?

村野は新聞社に勤めていて、コンクールの話をしたことが、古山裕一の人生を大きく変えることになったのです。

村野鉄男のモデル、野村俊夫について調べてみました。

【エール】村野鉄男(中村蒼)のモデルは誰?

中村蒼さんが演じている村野鉄男のモデルは、野村俊夫です。


引用:アサヒグラフ

野村俊夫は、古山裕一のモデル・古関裕而の幼なじみで、20歳から7年ほど福島民友新聞社の記者として勤務していたそうです。

その時に古関に文化欄などを担当させていたという話もあります。

裕一と鉄男のツーショット!

 
 
 
 
 
この投稿をInstagramで見る
 
 
 
 
 
 
 
 
 

乃木大将こと、鉄男と再会! 裕一の下宿部屋で2ショット📷 ⠀⠀ #朝ドラエール #窪田正孝 #中村蒼

連続テレビ小説「エール」(@nhk_yell)がシェアした投稿 –

作詞家野村俊夫の経歴

野村俊夫は1904年、福島県福島市大町で生まれました。本名は鈴木喜八で、関裕而の実家・喜多三の斜め前の魚屋の息子でした。

近所のガキ大将で、古関裕而はいつも喜八少年のあとにくっついて遊んでいたそうです。

「エール」の中での幼なじみ、と言うのは史実だったのですね。でも同級生ではなく、古関裕而の5歳上でした。

20歳の時に福島民友新聞社に入社し、編集部・報道部・文芸欄を担当します。

1931年に福島民友新聞社を退社し上京、同年に古関裕而と組んだ初のレコード「福島行進曲」が発売されます。

古関裕はこのときすでにコロムビア専属の作曲家として東京で活動していました。

1939年、「上海夜曲」のヒットにより、コロムビア専属の作詞家となります。

大変な酒豪で、身体を壊し61歳で亡くなっています。

作詞家ブラックリストの筆頭に

野村俊夫は新聞社に勤めていることもあり、リベラルな思想を持っていたようです。戦争に非協力的な詩を書いていたことから内務省のブラックリストに載っていたそうです。

そのため仕事がなくなり、家族を養うために方向転換して戦時歌謡を作詞して成功を収めるのでした。

今でも歌い継がれている曲や、替え歌になった曲もたくさんあります。

「エール」でのエピソード

「エール」89話で、野村哲夫が裕一のところにやってきます。

藤堂先生が戦死したことを機に、今まで断っていた作詞を再び始めるというのです。

先生は勝つつもりで戦った、その死を弔うために戦争の詞を書くことにしたと言い、作った詞を持ってきたのでした。

裕一は先生が勝つために戦ったのか疑問に思いながらも、詞を受け取るのでした。

野村俊夫が作詞した戦時歌謡

野村俊夫が作詞した戦時歌謡の一部と歌いだしの歌詞をまとめてみました。

●「ほんとにほんとに御苦労ね」 楊柳(やなぎ)芽をふく クリークで…
●「嘆きのピエロ 」 流れ流れて他国の月に…
●「想い出の旅情」  汽車は出て行く夜空の果てに…
●「東京だョおっ母さん」  久し振りに手を引いて親子で…
●「湯の町エレジー」  伊豆の山々月あわく灯りに…
●「東京タワー 」  素敵よ素敵ねごらんなさい…
●「どうせひろった恋だもの」 矢っ張りあンたもおんなじ男…

「東京だよおっ母さん」のエピソード

野村の最大のヒット曲は、1957年発表の「東京だヨおっ母さん」で、レコード販売枚数が150万枚と言われています。

この曲の前に「波止場だよお父つぁん」という曲が美空ひばりの歌でヒットしていて、日本コロムビアのディレクターが、お母さんバージョンを作ろうとして、詞を担当することになったのが野村でした。  

その内容は、自分の経験をもとにしており、20代で戦死した弟、それを悲しむ母の姿を描いたものでした。

この歌は当時19歳の島倉千代子が歌い、聞く人の心を打つ曲として後世に残るヒット曲になりました。

 
 
 

まとめ

●村野鉄男のモデル野村俊夫は古関裕而の幼なじみでガキ大将だった

●野村俊夫は古関裕而とたくさんのヒット曲を作った

●新聞社に勤めていて戦争には反対の立場だったが、生活のために軍歌を作詞した。

 

野村俊夫を演じた中村蒼さんについてはこちらの記事にまとめました!
 
 

※NHK朝ドラ「エール」の他の記事はこちら

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です