【エール】佐藤久志が酒浸りは実話?モデル伊藤久男の経歴や人柄についても

朝ドラ「エール」97話で、裕一(窪田正孝)と鉄男(中村蒼)は久しぶりに久志(山崎育三郎)と再会します。

久志はすっかり変わっていました。酒浸りになっていたのです。

【エール】佐藤久志が酒浸りは実話?

「エール」での佐藤久志

戦後佐藤久志の行方が分からなくなっていました。

藤丸(井上希美)が裕一と鉄男のところに来ます。久志のことで相談に来たのです。

※藤丸についてはこちらに書いています ↓

>>【エール】藤丸役の女優は?井上希美の経歴や性格についても

>>【エール】藤丸のモデルは音丸!経歴や史実との違いにについても

藤丸に連れられて二人が見に行くと、久志は闇市近くのあばら家で酒を飲んでいるのでした。

藤丸は見かねて久志の面倒を見ているのですが、久志は「世話をしてくれと頼んだ覚えはない」と、藤丸が作った食事を突き返し、藤丸は手をヤケドしてしまいます。

どうにもならずに藤丸は裕一たちのことろに相談に来たのでした。

裕一は何度も久志のことろに行きますが、そのたびに断られます。

「栄冠は君に輝く」の曲ができたときには、久志に歌ってもらおうとするのですが、やはり「帰ってくれ」と言われてしまいました。

※ここからはネタバレになります。

佐藤久志は戦争中に戦意高揚の歌をたくさん歌ったことで陰口をたたかれ、父親にも迷惑をかけたと苦しんでいました。

裕一はなんとか久志にまた歌わせようとします。

姿を消した久志を探して福島に行き、久志の実家で久志を見つけると、久志は自分の気持ちを素直に裕一に話すのでした。

裕一もそうでしたが、久志もまた、戦争中のことを周りから陰口をたたかれてどう生きていいのかわからず、苦悩していたのでした。

裕一は久志に戦時歌謡を歌わせた責任は自分にあると感じ、久志の力になりたいと思います。そして、池田(北村有起哉)に相談します。

池田は自分が歌詞を書き裕一が作曲した「夜更けの街」を久志に歌わせます。「夜更けの街」はヒットするのでした。

史実での伊藤久男

伊藤久男は終戦直後、戦時歌謡を多く歌った責任感から疎開先に引きこもり酒に溺れ、再起不能とも言われました。

しかし1947年に「夜更けの街」でカムバックします。この歌は松竹映画「地獄の顔」(マキノ雅弘監督)の主題歌で、作詞菊田一夫(池田次郎のモデル)、作曲古関裕而(古山裕一のモデル)でした。

佐藤久志が酒浸りになっていたのは史実だったのですね。

他にも伊藤久男の史実がドラマに使われています。

久志の招集免除の理由が痔は実話?

朝ドラ「エール」76話で裕一の幼なじみの佐藤久志(山崎育三郎)が、痔が悪いのが理由で招集免除になりました。

これは実話なのでしょうか?

佐藤久志のモデル「伊藤久男」にもそのような事実があったのか調べてみました。

9月28日の76話で、久志は招集され、裕一たちが壮行式を行いました。しかし翌日喫茶バンブー(当時の英語禁止のせいで「喫茶・竹」になっていた!)に行くと、久志がいるではありませんか。

「身体検査で落とされた」そうです。

裕一たちが理由を聞くと、痔のせいで免除になったというのです。

なんとこれは実話でした。

久志のモデル・伊藤久男も実際に召集を受けていたそうです。

その時に痔の悪化で入院していたという事で、痔が原因で軍役を逃れたというのは実話だったのです。

病院の医師が伊藤のファンで、軍役に行かなくて済むように計らってくれたということです。

当時痔が悪くて招集免除になるのは珍しいことではなかったそうですよ。


モデル伊藤久男の経歴や人柄について

佐藤久志のモデルは、伊藤久男(いとうひさお)さんです。

明治43(1910)年に福島県安達郡本宮町に生まれました。

本名は四三男(しさお)で、生まれた年の明治43年に由来しているそうです。芸名の久男は、本名の四三男から採ったのですね。

若い頃の写真を見ると、山崎育三郎さんに負けないほどのイケメンですね!


引用:イヨマンテの夜CDジャケット

生い立ちやプライベート

伊藤久男の父親は町長や県会議員、兄は衆議院議員を務めた家柄です。

実家は大地主の裕福な家庭で、ピアノを習い、中学のころにはピアニストを志望するようになります。

しかし音楽の道は家族に反対されたため、実家を継ぐという名目で、岩瀬農業学校を経て、東京農業大学に進学しました。

声楽家になる夢を捨てられず、農大を退学し、帝国音楽学校に入学しました。

それが家族にばれて、仕送りが途絶えることになります。

そこで、音楽学校の同級生とともにレコード会社コロムビアでアルバイトを始め、これがのちの歌手への道につながります

3回の結婚

プライベートでは3回結婚したそうです。

1度目は帝国音楽学校の同級生で、3年で離婚しました。

2度目は元芸者歌手・赤坂百太郎(大西ふさ子)さんと結婚し、4人の子どもを授かりましたが、後に離婚したそうです。

その後、宝塚歌劇団21期生の桃園ゆみか(伊藤あさの)さんと再婚し、4人の子どもを設け、前妻の子どもと8人を育てました。桃園さんとのお子さんのうち2人は芸能活動をしていたようです。

歌手としての経歴

1933年(昭和8年)「今宵の雨」でデビュー。これには古関裕而の勧めで日本コロムビアの専属歌手に応募したことから実現しました。

「エール」のお話でもオーディションの場面がありましたね。

その後古関裕而作曲の「露営の歌」がヒット、また、野村俊夫(村野鉄男のモデル)が作詞し、古関裕而が作曲した暁に祈る」などを歌うことでスター歌手としての地位を確立します。

放送の中でも「暁に祈る」誕生については触れられていました。

また、多くの映画にも起用され、出演しています。

放送の中でも久志が映画に出演する場面があります。力強い歌声…

終戦直後は、戦時歌謡を多く歌った責任感から疎開先で酒に溺れ再起不能とも言われましたが、1947年(昭和22年)の映画「地獄の顔」の主題歌「夜更けの街」でカムバックしました。

この歌を作曲したのも古関裕而でした。

その後は、「シベリア・エレジー」「イヨマンテの夜」など多くのヒットを飛ばしました。

すごい声量ですね。素晴らしい歌声です。

でも本人は人のためでなくお金のために歌っていたと言っています。そんなところも面白い人物だと思います。

生涯で700曲以上の歌を歌いました。NHK紅白歌合戦にも11回出場しています。

「紺碧の空」誕生にも関係あり

早稲田大学の第一応援歌「紺碧の空」は、古関裕而(古山裕一のモデル)が作曲しています。

伊藤久男の従兄弟が早稲田大学応援部の幹部にいて、古関裕而が伊藤の下宿に行ったときに会ったそうです。

そこで早稲田大学の応援歌の作曲を依頼されたのがきっかけで「紺碧の空」が生まれました。

伊藤久男の人柄

人柄は豪放磊落で、大酒飲みの大食いだったそうです。後にお酒の飲みすぎのせいか糖尿病になりました。

また、エレベーターの事故にあってから、高所恐怖症になり、エレベーターには最後まで乗らなかったそうです。

また、写真からもわかるように若いころは大変なイケメンで、女性との遊びも激しかったようです。

「エール」の佐藤久志がプリンスという設定なのも、そこから来ているのでしょう。

たぐいまれな歌唱力を持っていたようで、伊藤久男の歌を聞いて感動し歌手になった人もいるほどだったそうです。

戦後は、戦時歌謡を歌ったことでGHQに捕まるのではとの恐れからお酒に溺れたようで、気の小さいところもあったようですね。

お酒がたたったのか晩年は病気がちでした。顔もいかつくなっていますね。

1983年4月、肺水腫のため72歳で亡くなりました。

紫綬褒章や勲四等旭日章を受賞しています。

まとめ

朝ドラ「エール」で、福島三羽ガラスの一人、佐藤久志のモデル「伊藤久男」についてのまとめでした。

久志役の山崎育三郎さんがぴったり役にハマっていますね。

地元に帰って父親の面倒を見ると言っていましたが、慰問や吹き込みでまた歌声を聞かせてくれるといいですね。

佐藤久志(山崎育三郎)については、以下の記事にまとめがあります。

【エール】プリンス佐藤久志(山崎育三郎)まとめ!歌手を目指した訳や御手洗との対決も!

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