【エール】夏目千鶴子のモデルはソプラノ歌手の関屋敏子!華麗な経歴や悲運についても

「エール」で戦後しばらくすると、音は歌を再開します。

歌の先生のベルトーマス羽生に勧められて、オペラ「ラ・ボエーム」のオーディションを受けました。

そこに審査員としていたのが、かつてのライバル夏目千鶴子でした。

夏目千鶴子のモデルとされている関屋敏子について調べてみました。

 

【エール】夏目千鶴子のモデルはソプラノ歌手の関屋敏子!

ソプラノ歌手の関屋敏子さん ↓


引用:二本松市HP

プロフィール

生誕 死没 1904年3月12日 1941年11月23日 (満37歳没)
星座 うお座
出身地 東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区)
レーベル ニットーレコード
ビクターレコード
コロムビアレコード

 

華麗な経歴や悲運についても

お金持ちのお嬢様

関屋敏子は、1904年3月12日、実業家の父・関屋祐之介と母・愛子の娘として東京府東京市小石川区に生まれました。

父方の家系は二本松藩(福島県二本松市)の御殿医であり、母方の祖父はフランス系アメリカ人外交官チャールズ・ルジャンドル、母方の祖母は池田絲、また当時の名優・第15代市村羽左衛門は敏子の伯父にあたります。

4歳のころから琴や舞踊、長唄を習い、徐々に音楽的才能を発揮します。

小3で皇后陛下御前演奏の独唱者

東京女子高等師範学校附属小学校(現在のお茶の水女子大学附属小学校)に入学、1912年、同校の3年生の時、皇后陛下御前演奏の独唱者として「春が来た」「富士の山」を歌います。その透き通った美声は陛下をはじめ聴衆に大きな感銘を与えました。

後に三浦環に師事し、1914年、初めての発表会を行い、アントニオ・ロッティ作曲の『美しい唇よ、せめてもう一度』をイタリア語で独唱し、翌朝の『都新聞』に「天才音楽少女」と報道されました。

三浦の勧めでイタリア人テノール歌手のアドルフォ・サルコリに声楽を学びます。

1921年、満17歳で東京音楽学校声楽科(現在の東京藝術大学音楽学部声楽科)に入学するが、同校の主流はドイツ系であり、イタリア系声楽を学んだ敏子は異端視され、中途退学してサルコリに再び師事しました。

作曲を小松耕輔に学び、1925年に丸の内報知講堂で初リサイタルを行ないデビューし、名声は高まりますが、「世界のオペラの主流はイタリア」の信念から、1927年に憧れのイタリア留学を決意しました。

イタリアに留学し世界で評価される

到着後、イタリア音楽界の名指揮者スキャボニーに師事し、1カ月弱で「椿姫」「ルチア」「リゴレット」の三大オペラを修得します。素晴らしいですね。

ボローニャ大学から日本人初のディプロマ(特別卒業証書)を取得しました。

多くの演奏会でオペラ曲目以外に日本民謡を披露、新聞は「日本の生んだ天才音楽家」として高く評価しました。

日本の伝統歌謡を世界に広めた立役者と言えるでしょう。

その後オーディションに合格してミラノのスカラ座に入団します。スキャボニーから教えを受け、プリマ・ドンナとして「椿姫(つばきひめ)」「蝶々夫人」など五大オペラを3カ月間主演。

その後も国内をはじめ、アメリカ・ドイツ・中国など世界から主演要請があり、「世界のプリマドンナ」の地位を築きました

1929年に凱旋帰国し、1930年オペラ『椿姫』で藤原義江と共演し、絶賛されます。

「エール」で描かれた「椿姫」のエピソードはこれをもとにしているようです。

その後再度欧米に渡り、自作の日本歌曲なども紹介、1933年、パリで自作オペラ『お夏狂乱』を発表します。

翌1934年に帰国し、『お夏狂乱』を歌舞伎座で日本初演しました。

日本にオペラを広めたことは日本音楽史に大きな影響をあたえました。

結婚するも離婚

1937年、農林省に務める柳生五郎と結婚しますが、4年未満で離婚しました。

夫の五郎は剣術の柳生流の一族である大和柳生藩十三代藩主・柳生俊益の息子でした。

音楽を生き甲斐とし、関屋家の維持のため活動する敏子と、家庭に入ることを望む五郎との溝が深まったからとされています。

37歳で自殺

離婚後は心の中の空虚を埋めるかのように休む間もなく歌い、作曲を続けましたが、昭和16年、オペラ「巴御前(ともえごぜん)」の作曲に没頭し、連日深夜まで楽譜に向かうことで心身の疲労は極限に達していたようです。

自作「野いばら」の楽譜裏表紙に辞世の歌を残し、睡眠薬により自殺しました。

満37歳でした。自殺の原因として離婚、うつ病、作曲の行き詰まり、声の衰えなどがあげられましたがはっきりとはわかっていません。

敏子の死は、世界でお墓は横浜市鶴見の総持寺にあります。

関屋敏子の歌声 ↓

「エール」での役どころ

「エール」の中で、帝国音楽大学の記念公演「椿姫」のエピソードがありました。これは昭和5年に関屋敏子と藤原義江が共演したオペラ「椿姫」がモデルになっているようです。

なので、夏目千鶴子(小南満佑子)のモデルは関屋敏子と考えられます。

史実では、古関金子は関屋敏子よりも8歳年下であることから、帝国音楽大学で出会ってはいないので、夏目千鶴子と音の関係はフィクションでしょう。

音は「ラ・ボエーム」のミミ役に選ばれますが、他の出演者との差を感じて苦悩します。

審査員の夏目千鶴子に相談すると、思いがけないことを言われるのでした。

実は音は実力ではなく話題作りや宣伝のために公演を企画した会社の常務によって主役に選ばれたのです。

それを聞いた音は自ら降板を申し出るのでした。

まとめ

●夏目千鶴子のモデルは関屋敏子。

●関屋敏子は世界でも賞賛されたオペラ歌手で、日本にオペラを広めた。

●晩年は心労のためか自殺してしまう。

●音と夏目千鶴子のエピソードはフィクションである。

今回は、夏目千鶴子のモデル・関屋敏子についてのまとめでした。

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