「おちょやん」54話で、鶴亀家庭劇の「マットン婆さん」が演じられました。
「マットン婆さん」はもともと「アットン婆さん」と言う題名で、「松竹新喜劇」で演じられたものです。
当時のお笑いスターの藤山寛美(ふじやまかんび)さんも出演していました。
ここでは藤山寛美さんについて見ていきたいと思います。
目次
松竹新喜劇のスター藤山寛美とは?
「アットン婆さん」の藤山寛美さん ↓
アットン婆さんについてはこちら ↓
>>【おちょやん】マットン婆さんのモデルはアットン婆さん!あらすじや背景についても
ここからは藤山寛美さんのプロフィールや経歴を見ていきます。
藤山寛美のプロフィール
本名 | 稲垣完治 |
生年月日 | 1929年6月15日 |
没年月日 | 1990年5月21日(60歳没) |
出身地 | 大阪府大阪市西区 |
著名な家族 | 藤山直美(娘)藤山扇治郎(孫)北翔海莉(孫嫁) |
孫の藤山扇治郎さんは、「おちょやん」の須賀廼家万歳(すがのや ばんざい)役で出演しています。
経歴
1929年(昭和4年)に藤山秋美(ふじやまあけみ)の子として大阪に生まれます。五人姉弟の末っ子でした。
母は新町のお茶屋「中糸」の女将でしたが、家は子だくさんのこともあり貧乏だったといいます。
父・秋美は関西新派「成美団」の二枚目俳優でしたが、寛美が4歳の時に46歳で病死します。
その後、花柳章太郎の楽屋を母に連れられて訪れた際に、花柳から五人子供がいるのなら、一人は役者にしてもいいのではないか、と提案されます。
芸名も花柳につけてもらい藤山寛美を名乗り、4歳で初舞台を踏みました。
その後関西新派の都築文男に師事、師弟関係となります。
13歳の時、渋谷天外 (2代目)に誘われて新派からに移籍。
曾我廼家十吾の付き人として芸を学びます。寛美の芸や間の取り方は十吾の影響が大きいと言われています。
大阪大空襲で大阪の芝居小屋が焼け落ちた事もあり、1945年(昭和20年)3月に皇軍慰問隊の一員として旧満州に渡りました。
終戦を迎え、ハルビンで仕事を転々としながら生活していましたが、1947年(昭和22年)秋に帰国します。
1947年に曾我廼家十吾、師匠格に当たる2代目渋谷天外、浪花千栄子らの松竹新喜劇の結成に参加。
始めは二枚目を演じていましたが伸び悩んだ時期もありました。
1951年、天外が浪花千栄子との離婚直後に脚本を手掛けた「桂春團治」の酒屋の丁稚役が評価され、一躍人気役者となります。
1959年から放送された読売テレビの「親バカ子バカ」で息子の寛一役が大ヒット。アホ息子ぶりが大うけでした。
天外が脳出血で倒れた後は、実質的座長となります。
一方寛美は、母親の「あそばん芸人は華が無うなる」という言葉を守り派手に遊びまわり、知人の肩代わりも含めて膨大な借金を抱え、新喜劇をクビになってしまいます。その借金は当時のお金で1億円を超えたそうです。
ボーイにチップとして車のキーを渡し、車ごとあげてしまったというエピソードも。寛美はそのようなことが噂になることで、芝居を見に来てくれる客が増えると思い豪遊をやっていたそうです。
寛美のいない新喜劇は客足が伸びず、寛美は新喜劇に呼び戻されます。
その後松竹新喜劇は勢いを取り戻し、244か月連続無休公演をするなどの偉業を成し遂げます。
しかしいつまでも勢いは続かず寛美のワンマン体制に合わずに辞める劇団員もあり、観客数は落ちていきました。
1990年になると体調を崩し、肝硬変と診断され、5月に60歳で亡くなりました。亡くなる3日前には「中座」に行きたいと妻と共に夜遅くに行ったそうです。思い出のある芝居小屋や舞台を最後に見ておきたかったのでしょうか。
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おちょやん渋谷天外(一平のモデル)との関係
2代目渋谷天外は、寛美が13歳の時に松竹家庭劇に誘っています。寛美の才能を認めて誘ったのでした。
寛美は子役として出演し人気となりました。
そのころ天外と浪花千栄子は結婚していましたが、子供がいなかったこともあり、寛美を自分たちの子どものように可愛がったそうです。
天外は、寛美に自分の哲学を語ることもあったという事でした。
後に寛美は「お客さんあっての自分で、お客さんに合わせるのが当たり前」と話していますが、それは天外が「おまえのために世の中があるのではなくて、世の中のためにおまえがあるのだ」と言っていたことから生まれた考えでしょう。
「親バカ子バカ」など天外と寛美との親子役はテレビの普及とも相まって大ヒットとなります。松竹新喜劇はテレビとの相乗効果で大きく飛躍し、黄金期を築きました。
渋谷天外と浪花千栄子は、天外の浮気が原因で離婚しましたが、別離から11年後に和解しました。その時に藤山寛美が立ち会っています。
天外が脳出血で倒れた後は実質的な座長となり松竹新喜劇を盛り上げました。
まとめ
松竹新喜劇のプリンスと呼ばれた藤山寛美さんについて見てきました。
今の時代には現れないであろう破天荒な人生を歩んだ方でした。それはすべて芝居のためで、とにかく芝居を愛した人だという事が分かりました。
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